ライブ活動

私は6年間の小学生時代に一度も宿題をした行かない問題児でした。
図工以外の成績は5段階評価で1か2ばかりでした。音楽も「1」で、当然楽譜など読めませんし、リコーダーの課題曲などまったく吹けませんでした。

音楽会になると、先生の指示で客席から見えない一番後列の真ん中に配置されました。 そんな私でしたが、歌は好きで、友達のお兄さんに大好きなグループサウンズのレコードを聞かせてもらいました。その中には洋楽も含まれていました。
バンド名も知らないロックバンドの曲をよく聞かせてもらいました。

中学になると、ラジオで深夜放送を聞くようになり、ラジオから流れてきたビートルズの「Let It Be」を聞いてビートルズに心酔し、毎日聞いていました。

高校生になると、ジョン・レノンをリスペクトしつつ、日本のフォークソングを聞くようになりました。

加川良、ディランⅡ、西岡たかし、いとうたかおなど、どちらかと言えばマニアックなミュージシャンを好んで聞きました。
高校1年の夏休みに中古のガットギターを買い、朝から晩まで弾くようになり、2年生の学園祭で初めて人前で歌いました。
その頃からオリジナルソングを作り、歌うようになりました。

学生時代を過ごした東京では、頻繁にライブハウスに行くようなりました。
社会人になってからも、ギターを弾いては少しずつ歌を作っていました。

35歳の時、ふいに思い立って高校の同級生と地元のライブハウスで友人を集めてライブをやったをスタートに、毎年ライブをやるようになりました。

皮肉なことに、音楽の授業があんなに嫌いだったのに、音楽の先生やピアノ教師と一緒にバンド編成でライブをやるようにもなりました。

2000年に、地元では腕利きのフュージョンバンドのギタリストとベーシストと「ハワイ笑歌村塾」というバンドを作り、ライブ活動をはじめました。

私の作った方言ギャグソング「疑問」をライブでやると、それが評判になり、口コミだけでどこでやっても立ち見が出るようになりました。

翌年に、インディーズCD「こばしま」をリリースし、その中の「疑問 ~自動車教習所編」がラジオで流れたのがきっかけで、CDの注文が殺到するようになり、ライブのたびにラジオや雑誌、新聞の取材が来るようになりました。

地元倉吉市内のCDショップでは、当時爆発的に売れていた宇多田ヒカルのファーストアルバムの売れゆきを越え、長らくトップ1の座を守りました。

メンバー全員がそれぞれ別の仕事を持っていて、なかなかライブ活動が思うように行かなくなり、その時の秋には解散し、私一人で活動するようになりました。

ソロになってからリリースしたセカンドアルバムは、読売新聞鳥取県版のCDセールスランキングの欄で、トップ10にランクインしました。

2011年の消防退職後は、ライブ主体から講演が多くなりましたが、今でも大ホールからライブハウス、ちっちゃな集まりまで、お声をかけていただければ駆けつけて歌っています。

いつもいつも喜びを感じて
幸せはきっとこんなことなのね
きっと忘れない 今の幸せ
「今が最高」より
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