「大切」の大きさ

仕事柄、メンタルヘルスについて話す機会が多いので、日々の生活の出来事も、何かにつけて心や感情の問題に結びつけて考えるようになりました。

私自身に関わる出来事だけではなく、私のホームページの問い合わせフォームから送信されたメールやブログからのメッセージなどに綴られた未知の方の出来事にも思いを巡らすこともあります。

つらい経験をしたがようやく元気になれた、という体験談。

今まさに苦しみのどん底にいて、私のブログのエピソードを読み、話を聞いてもらいたくてキーボードを打っている、などいろいろな内容があります。



たくさんの方から話を聞くと、様々な悩みや苦しみ、不安の種類があることを、今更ながら教わることになります。

ちょっとした人間関係のもつれがきっかけであることもあれば、その方の大切な存在に関する大きな出来事であることもあります。

自分にとって大切な人の「大切さ」を見失うことで不幸になる場合もあります。

よく聞き、使いもするこの「大切」という言葉の意味を古語辞典で調べてみると、
【大切なり】重大である。さし迫っている。大事である。

とあります。キリシタン時代の日本の聖書では「愛」ではなく「御大切」と訳されたと聞きます。

明治期に編纂された大言海では「オゴソカニ護ルコト」と説明されています。時代とともにその解釈には変遷があったようです。

「大切」という言葉の意味の大きさを、あらためて思い知らされた気がします。



日頃、言葉の意味もよく知り、相手の存在のありがたさもよくわかっているつもりでよく使っています。

大切だとわかっていながら、相手との距離が近くて、一緒に過ごす時間が長くなると、存在して当たり前だと錯覚してしまいがちなのが、人という存在なのかもしれません。

親兄弟、夫婦、恋人、友人、その存在の重さ大きさを、時に見誤ってしまい、心ない言葉を口にしてしまったり、そっけない態度をとってしまったり、かけてあげるべき言葉を見送ったりした経験を、誰もが持っているのではないでしょうか。



人生の折り返し地点をとっくに過ぎた現在の私から見ますと、長いように感じていた月日も、過ぎてしまえば一瞬のように感じられます。

おそらくこれからは更に加速度を増すことでしょう。

今日一日を、さし迫った大事な一瞬だと思って、大切な人や思いをオゴソカニ護ルことを心がけたいと思います。

(日本海新聞「潮流」2016年5月11日掲載)

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