
救急隊として自損行為の現場に出動して、一番胸が痛むのは、動転し、泣き叫ぶ家族の姿を目にすることでした。
衝撃を受け、その人の体ではとても支え切れるはずもないほどの巨岩のような悲しみに押しつぶされそうになっている姿を見ると、自分の胸がギューっと絞られるように息苦しくなりました。
こんなに嘆き悲しんでくれる存在、それこそが本当の「宝物」ではないのか。
悩みごとや悲しい出来事が重なって、そんな「宝物」の存在さえも見えなくなっていたんでしょう。
そのつらさは、本人以外には理解できないものなのでしょう。
仕事のつらさ、人間関係の悩ましさ、病気の苦しさで、笑うことも、愛情を確認することさえもできなくなってしまったのでしょう。
23歳で消防士になり、いきなりそんな現場に出動し、動揺しました。
なんで同じ人間でいながら、ここまで苦しまなくてはいけないんだろう?
幸せってなんだろう?
同僚に話しても、「何を青臭いことを言ってるんだ」と言われるのがオチだと思い、誰にも話さないでいました。
会社での昇進や、大富豪になる夢を追いかけることを否定するわけではないんですが、そのために大切な「宝物」の存在が目に入らなくなるまで心をすり減らすことに意味があるんだろうか、と考えました。
同じ現場に出動しても、救急隊員はそれぞれの感じ方を持ちます。
もしかしたら、私のような考え方になるほうが稀なのかもしれません。
自損行為も、単なる心の病気での出動と割り切り、それ以上のことを考えない隊員も多いでしょう。
その後、何度も自損行為現場に出動しました。
そのたびに、嘆き悲しんでくれる「宝物」のような存在、それこそが「幸せ」の源ではないのか、と考えました。
私は現在、講演を仕事にしています。
「心」をキーワードに、いろんなテーマでお話しています。
その話の中で、そんな大切な「宝物」を見失わないようにしましょう、ということを伝えさせていただいてます。