プロフィール
心の元気講演家
オフィスうたことば代表
石川 達之(いしかわ たつゆき)
大学を卒業後、帰省して地元の消防局へ就職しました。
32年間、数多くの火災、救急、災害現場へ出動してきました。
過酷な現場で、体力の限界状態も経験し、心の耐力の極限も経験しました。
そんな消防生活のストレス解消のために、学生時代にやっていたギターの弾き語りを再開しました。
「歌う消防士」として活動を続けるうちに、NHK全国ニュースや24時間テレビで取り上げられ、日経、読売、朝日などの新聞でも紹介されるようになりました。
やりがいのある仕事と、充実した非番日を過ごしていました。自分はこうやって消防官として定年を迎えるだろうと考えていました。
二人の息子が高校卒業後、都会の学校に進学し、妻と二人きりの生活になりました。
そんなとき、妻がうつになってしまいました。
あまりに突然だったため、私自身もなかなかその事実を受け入れることができませんでした。
妻のうつが回復するまでの7年間と薬の副作用に苦しんだ2年間、私自身も途方にくれ、夫としての無力感と戦ったり、弱気になりそうな自分に気合を入れたりしながら寄り添い、生活しました。自分自身を励ますように歌を作り続けながら。
そんな経験をしてから、消防現場で出会う事例のひとつひとつが、それまで以上に心に突き刺さるようになりました。
事故、病気、労働災害の多くが、心の状態に起因するという事実に気づくようになりました。
たくさんの苦しむ傷病者、泣き叫ぶ家族の姿に
「幸せは、つかむものではなく、気づくものだ」
ということを学びました。
あんなに悲惨な現場で活動したことで、日常生活がこんなにキラキラと輝いていることに気づくようになりました。
自分は今、こんなに幸せなんだ!
心からそう思えるようになりました。
そんなふうに感じられるようになったことで、人間関係も変わりました。
今まで苦手に感じていた人とのコミュニケーションもうまくいくようになりました。
心が元気になるためには目の前の幸せに気づかなくてはならない、という学びを一人でも多くの人に伝えたいと思うようになりました。
悩んだ末に消防局を早期退職し、メンタルヘルスを学びました。
学んだ心理学は、消防現場で感じ、考えてきたことと、多くの共通点がありました。
人の心を元気にすることが、私自身の使命だと感じるようになり、歌入りの講演活動を始めました。
「気持ちが元気になりました」
「自分自身でよかったんだと思えるようになりました」
「歌とお話を聞いているうちに、どんどん力が湧いてきました」
アンケートにはたくさんの方から、行間から笑顔がこぼれそうな感想をいただいています。
あなたの近くの誰かが、あるいはあなた自身が、少し元気をなくしていたら、ぜひ私の歌と話を聞いてください。そして、昨日より今日が心の元気に満ちている、そんな日をスタートさせてください。
講演は8年間で32,000人以上の人に参加していただきました。
1957年生まれ。鳥取県湯梨浜町在住。
専修大学法学部卒
防災士
一般社団法人日本癒氣力公認講師
日本メンタルヘルス協会研究コース修了
関西心理相談員会会員
「鳥取牛骨ラーメン応麺歌」制作
鳥取県 睡眠キャンペーンソング「やさしい眠りをあなたに」制作
鳥取県交通安全協会「安全の輪」「光れ反射材!」制作
SUN-IN未来ウォークテーマソング制作
心の健康とのかかわり
うつのお客さまが多かった
ある時一通の手紙が来ました。
ラジオで流れた私の方言ギャグソングを聴かれた方からでした。
ご主人が数年前からうつで、仕事もできない状態で過ごされていたそうです。
ラジオのリクエスト番組で私の歌を聞いて、ご主人は声をあげて笑ったそうです。ずっと長い間笑うことなど忘れていたのに、と感謝の言葉が書いてありました。
その後は、遠方にもかかわらずライブがあると、夫婦して見に来られました。
私の歌がそんなふうにわずかでも誰かの役に立っていたと思うと、とても嬉しかったのを覚えています。
幸いにもその後、ご主人は回復されて仕事にも復帰されました。
ライブのMCでそんなエピソードを添えて、そのご夫妻の好きな歌を歌うことが多くなりました。
すると、ライブ後に話しかけてこられる方に、たくさんうつの経験者の方や、現在進行形のうつの方が多くなりました。
「実は私もうつで通院していますが、あなたの歌を聞くと、嫌なことを忘れられます」
そう言ってもらうことが多くなりました。
その頃から、単に自分の作った歌を聴いていただくだけではなく、少しでも聴きに来た人の心を軽くしたいと思うようになりました。それが私の講演のメインテーマを「心」にしようと思うようになったきっかけです。
「心の弱っている人を元気にしたい」
「元気な人はもっと元気にしたい」
そんな思いで、活動の重点をライブから講演に移しました。
張らなくてもいい 頑張らない日があってもいい のんびり歌でも聴こうよ 時々君のこと想うと 涙が出そうになる だけどそんな君のこと僕は大好きさ |
「ゆっくり歩こう」より |
妻のうつ
それはまったく予想もしなかったことでした。
2人の息子達が都会の学校へ進学すると、我が家は夫婦2人だけの生活になりました。
その頃から妻は食事がだんだん食べられなくなり、もともと細かった体が、さらに細くなっていきました。
妻は転職したばかりで、息子達がいなくなった寂しさと、慣れない仕事でのストレスが重なったせいで、夜も眠ることができなくなりました。
当時私は24時間勤務で、私の勤務日は妻は一人で家にいました。
勤務日の深夜、妻から「眠れない」「手がふるえる」「苦しい」「どうしていいかわからない。助けて」という言葉が並んだメールが届くようになりました。
心配で今すぐにも帰って顔が見たい、と思ってもそれが許される職場ではありませんでした。
妻は仕事を辞め、自宅療養することになりました。
毎日、ため息ばかりついていました。
非番の日は、私が食事や掃除、家事全般をやるようになりました。
それでも、うつを抱える妻とどう接することが回復に近づく道なのか、皆目分かりませんでした。
時には「もしかして早まったことをしたのではないか!」と、心臓が凍り付くような思いで、急いでうちに帰ったことも何度もありました。
「あなたの歌に癒されました」といろんな方に言ってもらっても、自分の妻の心を癒すことさえできなかったではないか、と自分を責めました。
うつ関連の書物を読みましたが、当時はまだうつ関連の書物の数は少なく、家族としてどうしてやればいいのか、具体的に示してある本には巡り会えませんでした。
私自身も、「なんのために生きているのか」と、生きている意味が見いだせない時期でした。
妻は病院に通院し、7年が経過し、ようやく笑顔が戻って来ました。
「自分のような体験をした人の役に立ちたい!」
彼女はその思いで心理カウンセラーの勉強のために大阪に通うようになりました。
一方私は、講演終了後に病気の家族を持つ参加者さんから相談を受ける機会が増えました。
メールでも、とにかく誰かに聞いて欲しいと、つらい経験を告白する内容のものが多く寄せられるようになりました。
誰にも相談できずに悩んで来られた方がいかに多いかに気づかされました。
少しでも元気になっていただける話をできないだろうかと、妻に後れること数ヶ月、私も心理学の授業を受けるために大阪に通いました。
「うつ・自殺予防」の講演依頼、福祉施設の職員対象の研修会の講師依頼を受ける機会が増え、心の病気への理解を深めていただくために、苦しんだ時期に作った歌をはさみながらお話をさせていただくようになりました。
苦しみ切ない 眠れぬ夜は 僕のことを思って 目を閉じて欲しい なんで生きてるのなんて 言わないで欲しいから 君がいるだけで僕は 生きる意味を知 |
「君を想う夜」より |
伝えたい
消防士時代には、たくさんの人の死を見てきました。
突然の無慈悲な事故や病気で命を亡くした人の亡きがらにすがり、大声をあげて泣き叫ぶ家族の声が今も耳の奥に残っています。
悲惨な事故、凄惨な事件、無念な病死、たくさんの現場で、何度も何度もそんな光景を目の当たりにしました。
火災現場、救助現場では、自分自身の生命が死に直面する状況も経験しました。
「明日死んでもいいように今日を生きる」という言葉をよく見聞きしますが、一般の生活ではなかなかそれを実感することはできないのではないかと思います。
私の話で、それをほんの少しでも実感していただきたいと思います。
私の講演で爆笑したり泣いたりしているお客様の中にも、心に傷を残していたり、大きなストレスを抱えている方がたくさんいらっしゃることを、アンケートやメールで知りました。
私には伝えたいことがあります。
あなた自身の大切さ
今こうして生きていることのありがたさ
今そばにいてくれる人のいとおしさ
かかわってくれた人への感謝の思い
私の歌と話で、そんな大切なことを感じていただきたいと思っています。
笑って「今」を楽しめる時間を一緒に過ごしましょう。
生きていると時には嫌なこともある やり切れないほど悲しいこともある 何のためにがんばってるんだろうなんて思う日もある だけど明日は元気で行こう 周りの誰かに支えられながら きっと誰かを支えながら |
「さいなら」より |
脱サラ独立
32年間消防士として勤務しました。消防業務は、命の危険と隣り合わせの仕事で、役職とは別に階級があり、規律に厳しい職場でした。
達成感を味わう瞬間もあれば、他の職業とは異なる緊張感があり、息を飲むほど壮絶な事故現場で活動することもしばしばありました。
不景気な時代でも、地方公務員として安定した職業ではあり、やり甲斐もある仕事でしたが、いつか仕事を辞めて歌と話で食べて行けたら・・・、
そんな夢がいつしか芽生えました。
しかし、歌を本業にして食べて行けるだろうかと考えると、不安の方が大きく、脱サラの一歩を踏み出すことができませんでした。
迷い、悩み、大阪や東京にセミナーを受けに行き、独立のための準備をはじめたものの、決断するきっかけがつかめずにいました。
そんな中、同じ署に勤務する先輩が病気になりました。
普通の職場と違って24時間勤務なので、文字通り寝食を共にする仲間です。
春が来れば定年になり、その後は旅行に行ったり、自分の好きなことをやるんだと楽しそうに話していました。
しかし、定年の数ヶ月前にがんが発見され、短期間でみるみる痩せてしまいました。
結局、入院したまま定年を迎え、数ヶ月後には他界してしまいました。
仕事柄、たくさんの人の死に接して来ましたが、身近な人が、そんなにあっけなくいなくなってしまうという事実にショックを受けました。
今までありきたりだと思ってきた「一度しかない人生」という言葉を、真剣に考えました。
いつまでも明日があると思い、先延ばしにしてきた自分の「夢」に今向かわねば、絶対に一生後悔する、そう思いました。
そして、ついに「早期退職願」を提出しました。
これから出会う人々の心を元気にするために全力を尽くそう、その思いは今もずっと変わりはありません。
ライブ活動
私は、小学生時代は全教科一度も宿題をして行かない問題児でした。
図工以外の成績は5段階評価で1か2ばかりでした。音楽も「1」で、当然楽譜など読めませんし、リコーダーの課題曲など、ちゃんと吹けたことは一度もありませんでした。
音楽会になると、先生の指示で客席から見えない一番後列の真ん中に配置されました。
そんな私でしたが、歌は大好きで、友達のお兄さんに大好きなグループサウンズのレコードを聞かせてもらうのが楽しみでした。
その中には、バンド名も知らないロックバンドの曲もありました。
中学生になると、ラジオで深夜放送を聞くようになり、たまたまラジオから流れてきたビートルズの「Let It Be」を聞いて以来ビートルズに心酔し、毎日聞いていました。
高校生になると、ジョン・レノンをリスペクトしつつ、日本のフォークソングも聴くようになりました。
加川良、ディランⅡ、西岡たかし、いとうたかお など、どちらかといえばマニアックなミュージシャンを好んで聞きました。
高校1年の夏休みに中古のガットギターを買い、朝から晩まで弾くようになり、2年生の学園祭で初めて人前で歌いました。
その頃からオリジナルソングを作り、歌うようになりました。
学生時代を過ごした東京では、頻繁にライブハウスに行くようなりました。
社会人になってからも、ギターを弾いては少しずつ歌を作っていました。
35歳の時、ふいに思い立って高校時代の同級生と地元のライブハウスで友人を集めてライブをやったのをスタートに、毎年ライブをやるようになりました。
皮肉なことに、音楽の授業があんなに嫌いだったのに、音楽の先生やピアノ教師と一緒にバンド編成でライブをやるようにもなりました。
2000年に、地元では腕利きのフュージョンバンドのギタリストとベーシストと「ハワイ笑歌村塾」というバンドを作り、ライブ活動をはじめました。
私の作った方言ギャグソング「疑問」をライブでやると、それが評判になり、口コミだけでどこでやっても立ち見が出るようになりました。
翌年に、インディーズCD「こばしま」をリリースし、その中の「疑問 ~自動車教習所編〜」がラジオで流れたのがきっかけで、CDの注文が殺到するようになり、ライブのたびにラジオや雑誌、新聞の取材が来るようになりました。
地元倉吉市内のCDショップでは、当時爆発的に売れていた宇多田ヒカルのファーストアルバムの売れゆきを越え、長らくトップ1の座を守りました。
メンバー全員がそれぞれ別の仕事を持っていて、なかなかライブ活動が思うように行かなくなり、その時の秋には解散し、私一人で活動するようになりました。
ソロになってからリリースしたセカンドアルバムは、読売新聞鳥取県版のCDセールスランキングの欄で、トップ10にランクインしました。
消防退職後は講演が多くなりましたが、今でも大ホールからライブハウス、ちっちゃな集まりまで、お声をかけていただければ駆けつけて歌っています。
笑って楽しんで、ちょっぴりホロっとくるライブを、一緒に楽しみませんか。
いつもいつも喜びを感じて 幸せはきっとこんなことなのね きっと忘れない 今の幸せ |
「今が最高」より |
鳥取県PR活動
2000年頃から方言ギャグソングが話題になり、テレビやラジオ、新聞に取り上げられる機会が増え、鳥取県PRイベントの出演依頼が来るようになりました。
最初はただ楽しくライブができればいいと考えていたのですが、「いつも鳥取県のPRをありがとうございます」と言われることが増えてきました。
時には鳥取PRをやっている者としてテレビや新聞でコメントを求められることもありました。
「そうか、方言で歌うことも鳥取県PRにつながるんだ」と思い、喜んでもらえるならと、それからはより鳥取県に目を向けるようになり、積極的に鳥取県の名物や名所を歌詞に入れた曲を作るようになりました。
2001年に鳥取県西部地震復興支援ライブを主催し、2003年には鳥取県倉吉市重要伝統的建造物群地区内の火災の復興支援ライブを主催し、収益を寄付させていただきました。
2004年には羽合町(現湯梨浜町)閉町式で「功労者表彰」をいただきました。
2010年鳥取県中部地方に多い牛骨ラーメン店を、B級グルメの展開で全国にPRして行こうと、有志が集まり「鳥取牛骨ラーメン応麺団」が結成され、団長さんから、「ぜひ、応麺団のテーマソングを作ってください」と依頼されました。
ふたつ返事で引き受け、私の作詞作曲で出来上がったのが「鳥取牛骨ラーメン応麺歌」でした。
その後牛骨ラーメンは全国的な話題になり、全国ネットのグルメ番組にたびたび登場するようになりました。そのたびに「応麺歌」がBGMとして流されました。私みずからラーメン店を巡って紹介するテレビニュースのレポーター役もやりました。
もちろん、B級グルメイベントのステージで何度も歌いました。
その頃、鳥取県出身で東京でライブ活動をしている竹内克文氏と一年限定のコラボ活動をすることになりました。
どうせやるなら二人で「鳥取県」をイメージした、できればお互いが暮らす都会と故郷をつなげるような歌を作ろうと話が決まり、出来上がったのが「梨のうた」です。
以前から面識のあった平井鳥取県知事とお会いした時に、「今、ふるさと鳥取と県外で暮らす鳥取県出身者をあたたかくつなげる歌を作ってるんです。出来上がったらCDを持って伺います」と話すと、「そうですか、ぜひいらしてください。お待ちしています」とおっしゃってくださいました。
CDができ上がると、すぐに県庁まで持参しました。知事の「どうせなら生で歌ってください」というご提案どおりに知事の面前で歌わせていただきました。知事のはからいで、テレビ局、新聞社などたくさん取材していただきました。
県の「食のみやこ鳥取県」のPRイベントの一環として、二人で、鳥取県各地と東京でライブを精力的にやりました。
その後も、鳥取県交通安全協会の歌を2曲作り、鳥取県が取り組んでいる自殺予防テーマの睡眠キャンペーンソングも作り、歌っています。
もし、これをご覧になられたあなたが少しでも私のふるさと鳥取の方言の歌に関心を持っていただいたなら、ぜひ動画からでもけっこうですので、鳥取県に触れてみてください。