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方言

日本海新聞に掲載された石川達之のコラム

苦肉の策から方言ソング(日本海新聞コラム)

鳥取県中部弁のギャグソングを作り、人前で歌いだしてから15年以上が経過しました。

それまでは、ちょっと暗めのオリジナルソングばかりを地元のライブハウスで歌っていました。

そんな私に、ほとんどが年上の女性100名近くの集まりで歌って欲しいという依頼がありました。
音楽好きでライブハウスに足を運ぶ層とは違う人たちだろうと予想し、何か作戦を考えなければ聞いてもらえないと思いました。

何日も考えあぐねた末に作りだしたのが方言の歌でした。

歌の合間に語りが入るという形式自体は珍しいものではありませんでしたが、歌と演奏が止まって語りだし、再び歌が始まるという形式を考えついた時には、これは革新的ではないか、と自分ながら思いました。

「鳥取県中部地方のおばさんは~」という歌詞で始まる「疑問」という歌でした。しかし、女性を前にして「おばさん」なんて言葉を使って顰蹙を買うのではないかという恐れもありました。ドキドキもので本番に臨んだのですが、会場は爆笑の渦となり、中には涙を流して笑う方もいました。

「地域の活性化」とか「方言伝承の重要性」など、まったく意識することもなくやりはじめたことでしたが、フリーペーパーの編集者さんや、新聞記者さんからコメントを求められるようになりました。

自主ライブの来場者も驚くほど多くなりました。注目してもらえることは嬉しかったのですが、特に使命感もないまま、「ウケる」ということだけで歌ってきたことに対する後ろめたさを感じていました。

もう止めようかと考えはじめた頃、知らない人からよく声をかけられるようになっていました。スーパーで買い物をしているとき、書店で本を物色しているとき、いろんな場所で話しかけられました。

「言っとくけど、私の方が方言には詳しいで」「○○という方言を知っとんなる?」という感じです。

ほとんどが女性で、満面の笑顔で、活き活きと話される表情を見ているうちに、方言ギャグソングも少しはいい仕事をしているのではないか、と思えるようになりました。

かつては私自身が、ステージで話す自身の訛にコンプレックスを持っていたのですが、その頃には誰憚ることなく、思う存分訛りまくることができるようになっていました。

方言というものがコミュニケーションツールとして有効なものであるということを、たくさんの方に知ってもらうきっかけにもなると考えるようになりました。

あとは、「おばさん」という言葉を封印したいとも考えるのですが、「なんで今日はおばさんの歌をやらないの!」と怖い顔で迫って来られるのは決まって女性です。非常に悩ましいところです。

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日本海新聞に掲載された石川達之のコラム

通じなかった方言(日本海新聞コラム)

方言ギャグソングを作り始めて13年が過ぎました。

厳密に数えてはいなのですが、ごく短い曲も含め、自作曲は300曲を越えました。方言ギャグソングはその一割くらいです。

いつの間にか、その自作曲の中ではメインではない方言ギャグソングを中心にライブメニューを組み立てるようになりました。一時期は、方言ソングを封印したいと思ったころもありました。
しかし、賛否両論いただくものの、たくさんの方に喜んでもらえるならと思い直し、今も継続して歌っています。

県外で歌う時も、自己紹介がてら、比較的わかりやすいと思われる方言曲を選び、最低でも1曲は歌うようにしてきました。

ところが、これが予想以上に通じないのです。確かに、鳥取県内でも東・中・西部では、「これが同じ県の言語か」と疑いたくなるほど著しく異なっています。それでも、県内ではどこで歌ってもほぼ同じポイントで笑いが起こります。

そんな方言曲を、県外で歌う機会が何度もありましたが、いつものポイントでまったく笑いは起こりませんでした。

5年前、「おいしい鳥取」という食のみやこ鳥取県キャンペーンで、東京駅近くの大きなレストランで方言曲を歌いました。

目の前で聞いていたのはお酒の入ったサラリーマンばかりでした。「さっぱりわかんねえよ」と言われ、「いやいや、いくらなんでも半分は意味わかるでしょ」と言うと、「8割…いや、9割わかんねえなあ」と言われました。

それだけならまだしも、「鳥取県って日本の北にある県だろ」と真顔で言われ、思わず、その場に正座させて鳥取県についての情報を諄々と説いて聞かせてやろうと思いましたが、勿論思っただけです。

その後、関西の友人からも「オチがどこかもわかれへんわ」と言われ、かつて一世を風靡した文学者高見順が獄中で「転向」を表明したように、悲痛な思いで県外での講演では方言曲を封印しました。

しかし、そのままおめおめと引き下がるわけにはいかないので、「鳥取県クイズ」に切り替えました。二度と鳥取県が東北にあるなどと言わせないために。

出題してみると、島根県と混同され率は高いものの、「山陰」の認識は意外に高いことを知りました。もしかしたら、酔っ払いのサラリーマン氏にからかわれたのかもしれません。

今後も、私のささやかな鳥取県PR活動を継続するためにも、早めにスタバとすなばで実際にコーヒーを飲まなければ、と思っているところです。

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日本海新聞に掲載された石川達之のコラム

「がんばれ」のゆくえ(日本海新聞コラム)

「がんばれよ」という言葉が、昔と違ってずいぶん嫌われるようになりました。

確かに病気で苦しんでいる人や、すでに精一杯やっている人、がんばり過ぎている人に言うべき言葉ではありません。ただでさえ苦しんでいる人に向かって言う「がんばれ」は、応援されているのではなく、「お前はもっとがんばれ」と突き放され、責められているように感じるからです。

そんな不用意な励ましがきっかけで、よけいに苦痛が増し、「自損行為」に至るケースも少なくありません。「自損行為」とは、救急出動種別の中のひとつで、リストカットや睡眠薬の大量摂取など、文字通り、自分の身体を自ら損傷させる行為です。

「これ以上どうやってがんばれって言うんだ!」という絶望感に打ちひしがれての末、思い余って、という事例もあります。

そこまで深刻ではないものの、相手にかける言葉が見つからなかったり、相談事が込み入っていたりしたときなど、とりあえずという感じで「がんばれ」を使ってしまうこともありがちかもしれません。

そんなマイナスな側面を持つこの「がんばれ」という言葉ですが、最近ではどうかすると「がんばれ」という言葉自体を忌み嫌う人が多くなっているように感じます。

叱られているように感じるとか、自分が怠けていると見られているとかのほかに、「頑張れ」の「頑」は「かたくな」だから、心をかたくなにしてはいけない、ということも言われることがあります。このまま忌み言葉として、日常会話から姿を消す運命にあるんでしょうか。

しかし、自分の子供が困難を乗り越えようとしている時、友人の心が揺れていて逃げそうになっている時、仲間が元気に目標に向かっている時、地区運動会のリレーで選手を応援する時、「がんばれ!」と声援を送ることに問題があろうはずはない、と私は思います。

広辞苑で【頑張る】を調べてみると「どこまでも忍耐して努力する。『成功するまで―・る』」という意味もありました。

人は人生の中で、歯をくいしばってがんばるべき時期がありはしないでしょうか。かたくなまでに必死になって何かをやったからこそ見えてくる風景もあるはずです。

友人や我が子には、一方的に「がんばれ」ではなく、「一緒にがんばろう」という伝え方をしてはどうでしょうか。

そして「大丈夫」という言葉と同様に自分自身には「がんばれ」と励ますことも大事ではないでしょうか。他人も自分も追い込むのではなく、愛情や友情、心配の感情をちゃんとこめての「がんばれ」という言葉は尊いものだと思います。

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