ここ数年、雑誌、テレビの特集や書籍でよく「幸福」の文字を目にする機会が増えました。
心理学、経済学、脳科学などの分野で「幸福感」「幸福度」についての研究が進められ、「幸福学」なるタイトルもよく目にするようになりました。
内閣府も国民の幸福度に着目し、「幸福度指数」作成が進められています。
経済問題だけではなく、個人の主観的な心のありようがいかに幸福感を左右するかが研究されています。
今年国連が発表した「世界幸福度報告書」の幸せな国ランキングでは、
GDP第3位の日本は、157カ国中5位です。
GDP1位のアメリカは13位
GDP2位の中国は83位です。
ほかにもいくつかの機関の幸福度に関するランキングがありますが、経済力がそのまま幸福度に反映するわけではないという意味では、同じような結果になっています。
しかし、「幸福」という言葉を口にすることに、少なからず抵抗感といいますか、照れくささを覚える方も多いのではないでしょうか。
思春期のころには「人間の幸福とはなんぞや?」などと深い思索をめぐらした方でも、社会人になって仕事の忙しさに追われ、新しい人間関係もつぎつぎに生まれ、子育てに大わらわな日々になると、そんなことを考える暇もなくなるのがほとんどだと思います。
私も、就職して結婚し、子供をさずかり、忙しく生活していく中で、いつしかそんなことは考えなくなる、はずでした。
ところが、 救急現場や救助現場で活動しながら、どうしてもそんな疑問について考えざるをえなくなることが何度もありました。
割れ砕け、路面のいたるところに飛び散ったフロントガラスの砕片。
運転席のシートの血液の黒い染み。
痛みを訴える叫び声。
かけつけたパトカーのサイレン音。
住宅で、工場で、路上で、ホテルで、学校のグラウンドで、いろんな形の「死」が現れては「生」とぶつかり、からまりあっては問いかけてきました。
「幸せってなんだと思う?」
経験年数を重ねるうちに、そんな非日常が日常になり、慣れていきました。
ようやくそんな疑問が薄らいだかと思うと、つぎの凄惨な現場でふたたび疑問を突きつけられるというくり返しでした。
そんな消防生活から離れて、すでに5年半が経過し、対向車線を通過する消防車や救急車を目にしても、ハッとすることもなくなりました。
幸福について考えることることもなくなりました。
消防士であったころが遠い幻であったような不思議な気持ちになります。そんな日生活の中で、今でもなお、ふいに鮮明な記憶がよみがえることがあります。
ぱっくりと切り裂かれた身体の切り口に見える黄色い脂肪層。
開放骨折で白い骨が露出した脚。血液のにおいや救急車内のにおい。
つぶれた車両を油圧拡張機で拡張し、挟まれ脚を引き抜く時の怒号のような指示命令の声。
自身が絶命することを受け入れられない無念の表情。
そんな時、あらためて「幸福」について考えます。人はもっともっと「幸福」について考えてもいいのではないかと思います。
何歳になっても、照れずに「幸福」を探し、その存在に気づくことや育てることを真剣に考えることが、心の病気が増加の一途をたどるこれからの時代には、ますます必要になることは間違いありません。
(新聞の月一コラムに掲載されたエッセイです)