希望の歌へ(日本海新聞エッセイ)

日本海新聞に掲載された石川達之のコラム

昨年、私の講演会に、かつて消防学校で鬼教官と呼ばれていた恩師が、ご家族と一緒に来られました。

今でこそ違和感なく「恩師」と書けますが、28歳だった当時の私は、その厳しさに憎悪の炎をメラメラと燃やしていました。元鬼教官の満面の笑顔を見て、懐かしさと嬉しさがこみ上げてきました。

 筋肉痛に耐えて走ったり、ロープを登ったりしていた光景がよみがえりました。寮生活で、週末だけ帰宅が許されていました。

月曜日の朝、車で学校に向かいながら、高い訓練塔が視界に入ると、名状しがたいブルーな気持ちになったものです。ここだけの話ですが(そうは言っても読まれてしまうと思いますが)、陰で同期生達と悪口雑言でストレスの解消をしていました。それも懐かしい思い出です。

「僕のこと覚えてくれてましたか?」
「覚えてる、覚えてる。潮流も毎月読んどるよ」

そんな会話を交わしながら、消防退職4年目にして、またも原点に戻れた気がしました。

「またも」というのは、以前にも一度、原点を意識したことがあったからです。

以前、倒れて意識がなくなった母の病室に向かうとき、夜の待合室を通りました。

夜なのに、数人の方が診察室前廊下のイスに座っていました。苦しみ続けているに違いない母のことを考えながら歩いていた廊下は、かつて救急隊員として何百回も病人やケガ人をストレッチャーに乗せて搬送した見慣れた場所でした。

かつて、胸を締め付けられるような思いで搬送したことも思い出しました。その時ふいに、そこで不安そうに座っている人達のことが胸に迫ってきました。

みんな手術を受けている人の心配をしたり、自分自身の病気の不安と戦っていたりしているのだ、ということがリアルに伝わってきました。

私は立ち止まって、そこのイスに座っている人、一人一人の肩を抱いて、「たいへんですね。つらいですね」そう言ってあげたい衝動にかられました。

脱サラした時の、聞いてくれる人の心に寄り添ったり、共感できる歌や話をしたいという原点に戻れた気がしました。それがやがて聞いた人の希望の歌になるように頑張らねばという原点です。

元教官に、「今夜は米子で飲もう」と誘われましたが、予定があったので、「またこちらから連絡します」と答えたものの、まだ連絡していないのを思い出したので、このあたりでひっそりと拙文を終えたいと思います。

日本海新聞「潮流」の記事画像
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