心の元気講演家 石川 達之ホームページ

希望

日本海新聞に掲載された石川達之のコラム

わたしの「故郷」(日本海新聞エッセイ)

唱歌「故郷」と言えば、日本全国歌えない人はいない! というくらいよく知られた歌です。「日本人の心の歌ランキング」というようなものがあれば、間違いなく1位になるに違いありません。それくらい日本人の心に深く染み渡るメロディーと歌詞だと思います。

 私のライブ、講演ではどこでやっても、基本自分のオリジナルソングしか歌わないのですが、「参加者全員で歌える歌を」と要望された場合は、この「故郷」を一緒に歌っています。年配の方々も、この歌を歌うときは大きな声を出して歌われます。その表情は歌う人、一人一人が主人公として自分の半生をふり返っているように見えます。

私が小学生の頃は、「兎追いし」を「ウサギ美味しい」だと思い、「つつがなしや」の意味は分からなくても、「トモガキ」というおいしそうな柿のことは分かる、などと思っていました。社会人になってからは、3番の歌詞「志を果たして/いつの日にか帰らん」の切々たる望郷の思いに感じ入るようになりました。

鳥取県中部出身で、東京で音楽活動を続けている竹内克文さんと私で作った「梨のうた」は、作詞するにあたって「現代版の『故郷』を作ろう」という大それた思いで作りはじめました。

虚空をにらみ、言葉を探してもなかなか生まれ出ては来ませんでした。何日も何日も、鉛筆を手にして頭の中をまさぐっても、一行も出てきませんでした。高望みを止め、故郷を離れて都会で暮らす息子への思いを文字にしました。

「店先に並ぶ梨の実見つめ/君、せつないほど目もとうるます/黄緑色が鮮やかに/手のひらの上で輝いて」

「都会の季節はいつだって/知らぬあいだに移ろうが/君が夢さえ忘れなきゃ/いつかは開く白い花」

その文言を鉛筆で書き綴った時、不覚にも涙が流れて止まりませんでした。

実家がかつては梨の生産農家だったこともあり、剪定、人工授粉、袋かけなどの作業風景が蘇り、梨畑一面に広がる白い花が浮かびました。その映像の中に、自分の生き方に悩み、描いては潰(つい)えていく夢を追い、傷つき悩む息子の姿が見えた気がしました。

 最近は、講演会のラストをこの歌でしめくくることが多くなりました。いつかは「故郷」に近づける歌を作りたいという野望だけは捨てずに、歌作りを続けていきたいと思っています。それができるまでは、「君が夢さえ忘れなきゃ」と、自分自身を励ましながら歌い続けようと思います。

日本海新聞「潮流」の記事画像
日本海新聞に掲載された石川達之のコラム

希望の歌へ(日本海新聞エッセイ)

昨年、私の講演会に、かつて消防学校で鬼教官と呼ばれていた恩師が、ご家族と一緒に来られました。

今でこそ違和感なく「恩師」と書けますが、28歳だった当時の私は、その厳しさに憎悪の炎をメラメラと燃やしていました。元鬼教官の満面の笑顔を見て、懐かしさと嬉しさがこみ上げてきました。

 筋肉痛に耐えて走ったり、ロープを登ったりしていた光景がよみがえりました。寮生活で、週末だけ帰宅が許されていました。

月曜日の朝、車で学校に向かいながら、高い訓練塔が視界に入ると、名状しがたいブルーな気持ちになったものです。ここだけの話ですが(そうは言っても読まれてしまうと思いますが)、陰で同期生達と悪口雑言でストレスの解消をしていました。それも懐かしい思い出です。

「僕のこと覚えてくれてましたか?」
「覚えてる、覚えてる。潮流も毎月読んどるよ」

そんな会話を交わしながら、消防退職4年目にして、またも原点に戻れた気がしました。

「またも」というのは、以前にも一度、原点を意識したことがあったからです。

以前、倒れて意識がなくなった母の病室に向かうとき、夜の待合室を通りました。

夜なのに、数人の方が診察室前廊下のイスに座っていました。苦しみ続けているに違いない母のことを考えながら歩いていた廊下は、かつて救急隊員として何百回も病人やケガ人をストレッチャーに乗せて搬送した見慣れた場所でした。

かつて、胸を締め付けられるような思いで搬送したことも思い出しました。その時ふいに、そこで不安そうに座っている人達のことが胸に迫ってきました。

みんな手術を受けている人の心配をしたり、自分自身の病気の不安と戦っていたりしているのだ、ということがリアルに伝わってきました。

私は立ち止まって、そこのイスに座っている人、一人一人の肩を抱いて、「たいへんですね。つらいですね」そう言ってあげたい衝動にかられました。

脱サラした時の、聞いてくれる人の心に寄り添ったり、共感できる歌や話をしたいという原点に戻れた気がしました。それがやがて聞いた人の希望の歌になるように頑張らねばという原点です。

元教官に、「今夜は米子で飲もう」と誘われましたが、予定があったので、「またこちらから連絡します」と答えたものの、まだ連絡していないのを思い出したので、このあたりでひっそりと拙文を終えたいと思います。

日本海新聞「潮流」の記事画像

上部へスクロール