心の元気講演家 石川 達之ホームページ

脱サラ

オンライン講演中に歌う石川達之

「人生の転機」特別授業で脱サラについて話す

鳥取県立鳥取盲学校さんから、「脱サラしたときのことを聞きたいという生徒がいるので、特別授業をしてもらえないか」という依頼をいただきました。

視力が衰えていくため、新たな職業に就かれる生徒さんのたいへんさは、私などの想像を遥かに超えたものがあると思います。
それでも私のささやかな経験が、少しでもお役に立つならと、お引き受けしました。

長年勤めてきた仕事を辞めて、新たな仕事に挑んだときの気持ちはどんなだったのか?
脱サラ後の人との出会いでどんな学びがあったのか?
大きくその2つが聞きたいということでした。

私が伝えようと思ったのは、
今までの仕事での体験
今までの人との出会い
すべてに無駄はなく、新たな仕事に、新たな人生に結びついていたということでした。

不安より情熱が上回った

オンライ講演会の収録中の笑顔の石川

まず、私は「不安より情熱が上回った」ということを伝えました。

どんな職業からでも転職や独立起業する際には、不安がつきものです。

私も消防士から講演家に転身したときには、不安がたくさんありました。しかし、50代とはいえ情熱があふれるほどあったので、やる気だけで突っ走りました。

私の情熱の源は、後悔したくないという思いです。

消防に在職中も、何度となく脱サラに思いを馳せることはありました。

しかし、本当に考えるようになったのは、妻がうつになった49歳の頃でした。
隔日勤務で、一日置きに妻を一人きりにしていた生活を、なんとかしたいと思うようになったのです。

仕事内容も、定年に影響を受けることなく、生涯現役で働ける仕事で、ずっとやりたいと思っていたことをライフワークにしたいという思いが強くなりました。

消防という仕事は、たいへんなことが多いのですが、間違いなくやりがいのある仕事です。
しかし、自分が一生やり続けたいことは、全国で講演をしてまわりたいということでした。
消防士でいる限りは自由に動くことはできません。

今の生き方のまま死ねば、自分はどうなんだろう?
自問すると、答えは明らかでした。
やりたいことを諦めたまま死ねば、絶対に後悔する!

そんな思いが日増しに強くなっていったのです。

今までの経験は無駄にはならない

夜間雨降りに走行する救急車

次に話したのは、過去の経験は、たとえそのときにはネガティブなものに感じていたことであっても、無駄にはならないということです。

私自身、32年間消防士として現場活動をやってきたことが、まさか講演に活かすことができるようになるなんて考えてもいませんでした。

しかし、悲惨な現場で活動してきたことをお話ししてきたおかげで、こうやって盲学校の皆さんにお話できるチャンスが生まれたのです。

32年間勤務した月日は、しっかりと今につながっていることを実感しています。

盲学校の生徒さんも、視力が衰えたり失ったりされたことで、以前の職業とまったく違う業種へ進まれる人もいらっしゃると思います。

それでも以前の職業の体験や学びは、必ずこれからにつながって行くということを話しました。

人との出会いで学んだこと

邑南町「おおなんフィンランド協会」主催の講演会後懇親会の様子
おおなんフィンランド協会の皆さんと

生徒さんからの質問の中にあった「人との出会いで受けた影響は?」についても話しました。

もちろん、学生時代の友人、消防士時代の同僚など、影響を受けた人はたくさんいます。

脱サラしてからは、今まででは考えられないほどのたくさんの人との出会いがありました。

講演も、出会った人たちが次の講演につないでくださる事が多く、人との出会いなしには考えられない職業だと、あらためて思いました。

私自身も出会った人達、これから出会う人達にいい影響を与えられる人間でありたいと思っています。

私がお伝えしたかったのは、今までの仕事での体験や今まで出会った人達すべてに無駄はなく、新たな仕事に、新たな人生に結びついているということです。

その他の質問

オンライン講演会中の石川のPCディスプレイの画像

授業中にいろんな質問をいただきました。
「どんなときに曲作りするんですか?」という質問でした。
私の歌をラジオで聞いたことがある生徒さんからでした。

オンラインでの授業でしたが、これが2回めで、カメラはもちろん、ギターもマイクもしっかりと準備したので、生徒さんのお顔もしっかりと見ながら授業が勧めました。

2時間という長時間でしたが、脱サラについて話せたことや、リモートでやることが新鮮でした。生徒さん達の新しい挑戦に、心からエールを贈りたいと思います。

項 目内 容
講演会タイトル「人間と社会」特別授業
日 時令和3年1月29日(金)13:20~15:10
演 題
場 所オンライン
主 催鳥取県立鳥取盲学校
日本海新聞に掲載された消防局早期退職後の講演活動の紹介記事。

早期退職後の講演活動が新聞に掲載される

2011年3月末日付で、鳥取県中部消防局を早期退職しました。
何年も悩んだ末の脱サラでした。

歌う講演活動をやっていこうと決めていたのですが、果たして講演依頼をいただけるのか、どんなPRをすればよいのか、まるでわからない手探り状態でした。

ようやく依頼がいただけるようになりましたが、いち早く新聞に活動を掲載していただいた新聞があります。

在職中から、何かにつけて取材していただき、イベントの告知もしていただき、ずっと応援していただいていた日本海新聞さんに取材していただきした。
7月の紙面に掲載していただきました。

日本海新聞に掲載された消防局早期退職後の講演活動の紹介記事。

第2の人生、元気届けたい(日本海新聞)

今年3月に中部ふるさと広域連合消防局を辞め、シンガー・ソングライターの道を進むことに決めた。
歌だけでなく講演活動も行う予定。
「職場の同僚や先輩、後輩、友人たちが応援してくれた。期待に応えたい」
と胸を張る。

高校生の時にギターを始め、学園祭で歌ったりもした。
大学に進学してからは読書に明け暮れ、人前で歌うことはなく、散文詩を書くなどして過ごした。
それが「今の歌づくりに生きている」という。

社会人になって音楽を再開。
今までにアルバム44枚、鳥取県出身のミュージシャンとの共作アルバム1枚を発売し、方 言ソングで地元の人の注目を集めた。

ユーモアあふれる歌詞と語り。
癒やされたい、との思いでライブに足を運ぶファンが多いが、実生活では
「病気の家族にどう接していいのか分からず、自分を責めていた時もあった」という。
楽しいこと、つらいこと。 全てを受け止め、第二の人生を踏み出した。
講演活動を充実させるため、今は週に1度大阪に通い、メンタルヘルスについて学んでいる。

「笑って、泣いて、歌いましょう。人を元気にする活動をしていきたい」。
眼鏡の奥で瞳が輝く。湯梨浜町久留、54歳。

日本海新聞に掲載された石川達之のコラム

先輩の死が教えてくれたこと(日本海新聞コラム)

「いつ消防士を辞めようと思いましたか?」と、あるラジオ番組で問われたとき、指を折って年数を数えると、決意してから実際に辞めるまでに4年が経過していました。

その頃、私生活では、家族の病気に悩みながらも、勤務のかたわらライブ活動を続け、NPO活動や自主イベントの主催などもやっていました。
時間を思うように使えないジレンマがあり、できれば思いっきり活動したいという思いがありました。

仕事の面では、職場環境も次々改善され、私が入ったころとは比較にならないほど快適なものになっていて、職場の人間関係も良好でした。

辞めて自由に活動したいという思いも現実味を帯びることはありませんでした。

そんなとき、同じ署に勤務する先輩が病気になりました。

定年退職を間近に控え、退職後の自由な生活を語っていた先輩でしたが、毎年人間ドックは欠かさず受診していたのに、大きな病に冒されていました。

しばらくは仕事を続けながら通院していましたが、その間にも痩せて、だんだん元気がなくなりました。

仕事柄、目の前で息を引き取る人をたくさん見てきました。

そのつど、胸ふさがれる思いになり、自分の生き方を問いました。

しかし、すぐにまた次の出動があり、慌ただしい生活の中で、そんな思いも次第に薄らいで行くのが常でした。

それに、消防を辞めてほかの職業に就くことは、自分の人生を捧げて真摯に仕事に向き合っている同僚たちに対して、とても失礼なことではないか、という思いもありました。

先輩は、辞令交付式では、病床にあって退職辞令を受領することはかないませんでした。

そして、その数か月後に他界しました。

同じ署で勤務し、文字通り寝食を共にした仲間が亡くなったという事実が、もう一度自分の生き方を考えさせてくれました。

おそらく世間的には、公務員という安定した職業を捨て、歌や講演など一般的ではないことを職業にしようとすることを、ばかげた選択だとみられることでしょう。

しかし、人からどう見られるかということや経済的不安も含めすべてを取り払って、自分が明日死ぬとしたら、やり残したと後悔することはないだろうかと、リアルに考えることができました。

時には「石川君、今のままでええか?」という先輩の声が聞こえる気がしました。

脱サラを決心してから実行に移すまでの4年間、一度も心が揺らがなくなっていたのは、先輩のおかげだと、今でも感謝しています。

春になると毎年その先輩のことを思い出します。

日本海新聞「潮流」の記事画像
日本海新聞に掲載された石川達之のコラム

希望の歌へ(日本海新聞エッセイ)

昨年、私の講演会に、かつて消防学校で鬼教官と呼ばれていた恩師が、ご家族と一緒に来られました。

今でこそ違和感なく「恩師」と書けますが、28歳だった当時の私は、その厳しさに憎悪の炎をメラメラと燃やしていました。元鬼教官の満面の笑顔を見て、懐かしさと嬉しさがこみ上げてきました。

 筋肉痛に耐えて走ったり、ロープを登ったりしていた光景がよみがえりました。寮生活で、週末だけ帰宅が許されていました。

月曜日の朝、車で学校に向かいながら、高い訓練塔が視界に入ると、名状しがたいブルーな気持ちになったものです。ここだけの話ですが(そうは言っても読まれてしまうと思いますが)、陰で同期生達と悪口雑言でストレスの解消をしていました。それも懐かしい思い出です。

「僕のこと覚えてくれてましたか?」
「覚えてる、覚えてる。潮流も毎月読んどるよ」

そんな会話を交わしながら、消防退職4年目にして、またも原点に戻れた気がしました。

「またも」というのは、以前にも一度、原点を意識したことがあったからです。

以前、倒れて意識がなくなった母の病室に向かうとき、夜の待合室を通りました。

夜なのに、数人の方が診察室前廊下のイスに座っていました。苦しみ続けているに違いない母のことを考えながら歩いていた廊下は、かつて救急隊員として何百回も病人やケガ人をストレッチャーに乗せて搬送した見慣れた場所でした。

かつて、胸を締め付けられるような思いで搬送したことも思い出しました。その時ふいに、そこで不安そうに座っている人達のことが胸に迫ってきました。

みんな手術を受けている人の心配をしたり、自分自身の病気の不安と戦っていたりしているのだ、ということがリアルに伝わってきました。

私は立ち止まって、そこのイスに座っている人、一人一人の肩を抱いて、「たいへんですね。つらいですね」そう言ってあげたい衝動にかられました。

脱サラした時の、聞いてくれる人の心に寄り添ったり、共感できる歌や話をしたいという原点に戻れた気がしました。それがやがて聞いた人の希望の歌になるように頑張らねばという原点です。

元教官に、「今夜は米子で飲もう」と誘われましたが、予定があったので、「またこちらから連絡します」と答えたものの、まだ連絡していないのを思い出したので、このあたりでひっそりと拙文を終えたいと思います。

日本海新聞「潮流」の記事画像

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