どんな職業も、経験を積むことで技術を向上させ、効率を高めていきます。
建設業、土木業、製造業など、重機や製造機器などの取り扱いや、高所での作業等、安全管理がとても重要になる職業です。
研修などの受講の機会も多く、常日頃から安全に取り組んでいらっしゃることと思います。
かつて私が働いていた消防も、警察官や自衛官と同様に、常に死の危険と隣り合わせで業務を行っている関係上、安全管理は最重要課題です。
そんな危険と隣り合わせの職業では、経験は命を守る大切な武器となります。
しかし、その豊富な経験が、時として自分自身を危険にさらす場合があることをご存知でしょうか。
火災現場で焼落物をよけながらの消火作業、二次災害の危険が伴う人命救助の重圧、そして日々の訓練。
それらを積み重ねた経験は、危険を回避しながら効率的に作業を進めることに繋がります。
しかし一方で、その経験が「慣れ」になってしまい、時として重大な事故につながりかねない状況を作り出すこともありました。
私が消防局に在籍した32年の間にも、全国の消防の事故に関するニュースを何度も見てきました。
交差点での救急車の衝突事故
ストレッチャーから傷病者の転落事故
はしご車訓練中の転倒事故
ヘリコプターから救出中の要救助者の墜落事故
もちろん、それらの事故がすべて「慣れ」によるものだと、断定するつもりはありません。
中には不可避な状況での事故もあったかもしれません。
しかし、明らかに「慣れ」が悪い結果に結びついた事例もあります。
あなたが働いている業種の事故事例などについては、私より遥かによくご存知だと思います。
ですから、消防士としての事故事例や、労災事故でわかったことなどを中心にお話します。
異なる業種でも参考にしていただけると思いますので、最後まで読んでいただけたら幸いです。
慣れが安全を脅かす
私たちは日々の業務をくり返すうちに、作業に慣れていきます。
慣れることで効率は上がりますが、同時に大きな危険も潜んでいます。
それは、「油断」という名の落とし穴です。
【消防活動の実例】
2000年に、静岡県内の大規模な製造工場で火災がありました。
消火作業中に、消防隊員3人、警察官1人が死亡し、4人が負傷した痛ましい事故となりました。
当時、テレビで大きく報道されたので、ご記憶にある方も多いと思います。
その後の調査で、亡くなられた4人が、緊急脱出用のロープをつけずに工場内に進入していたことがわかりました。
さらに、屋内進入した4人に対して、空気呼吸器は2台だけだったことも分かりました。
私がいた消防局では、建物火災で出動する場合は、屋内進入する隊員は、全員空気呼吸器を背負って活動をはじめます。
そして、退出ロープの結着は、火災時には濃煙で視界がきかなくなり、さらにブレーカーが落ちて照明が消えるので、必ずやるものです。
逃げ遅れの捜索も手探りでやるので、発見時や退出時には屋外にいる隊長にロープをひっぱることで合図を送ります。
・空気呼吸器を2人しか着装していなかったこと
・脱出用ロープをつけていなかったこと
どういう事情でそうしたのかは、現場にいなかった者には事実はわかりません。
もしかすると、最初は煙も少なく、ヘッドランプの光だけで大丈夫だと思っていたところ、急に濃煙が立ちこめてきたのかもしれません。
どちらにしても、消火作業、救助作業に携わる者は、原則を必ず守らないと命を奪われる危険が常につきまとうことには間違いがありません。
常に気持ちを新たにして、日々の業務に臨むことの重要性に、あらためて気づかされました。
そして、どんなに慣れた作業でも、一つ一つの動作に意識を向けること。
これは、安全を守るための基本中の基本です。
慣れに流されず、常に警戒心を持ち続けることが、自身の安全、そして市民の生命を守ること、無事に家族の待つ我が家へ帰ることにつながるのです。
ベテランの落とし穴
どんな業種でもそうですが、消防の世界において、経験は何物にも代え難い貴重な財産です。
しかし、その経験が時として危険な落とし穴となることがあります。
特に消防士は、勇猛果敢であることに誇りを持ちます。
そして、体力があること、運動能力が高いことに誇りを持ちます。
職業的に、そうであることが望ましいのですが、誇りが「過信」になると、とても危険な状況を生み出すことになります。
この過信は、以下のような形で現れることがあります:
【危険の過小評価】
「これくらいなら問題ない」と、潜在的な危険を軽視してしまう。
火災現場は、ここまでは安全という標識があるわけではなく、現場の状況はよく急変します。
「これくらい大丈夫」が、文字通り命取りになりかねません。
【マニュアル軽視】
「経験上、こうしたほうが早い」と、安全手順を省略してしまう。
消防の現場活動はスピードが要求されます。
ですから、救助訓練大会は、確実な安全確保をしつつのスピード競技になります。
しかし、スピードを最優先してしまうがために、大前提の「安全確保」を省略してしまい、実際の事故に繋がる危険性があります。
【体力の過信】
「まだまだ若い者には負けない」と、無理な活動を行ってしまう。
実際に、連日筋トレに励み、若者に負けない体力の持ち主も多いのですが、それでも反射神経など、自分で意識しないところで減退しているものです。
安全に対する考え方も日々進化しています。
まず自分自身の安全を確保するのが大前提で、言い換えれば、自分を守ることができなければ人を救うことはできないのだという考え方になってきました。
現代では当たり前の考え方ですが、それでもまだまだ気持ちのどこかに「過信」が残っているかもしれません。
安全管理において最も重要なのは、自分の限界を知り、それを正直に認めることです。
そして、どんなに経験を積んでも、基本に立ち返る謙虚さを持ち続けることが、真のプロフェッショナリズムなのです。
新たな安全対策に関する記事を「安全な職場はどう作る?「ミスは敵ではない」に書いています。
消防の事故と他業種の事故の共通点
消防士の世界で起きる「慣れ」や「過信」による事故は、実は多くの業種に共通する問題です。
ここでは、消防士の経験から得られた教訓を、他の業種どのような共通点があるかを具体的に見ていきましょう。
【建設業との共通点】
建設現場では、高所作業や重機の操作など、常に危険と隣り合わせです。
例えば、ベテラン作業員が安全帯の着用を怠る、という事例は、安全管理の研修会や安全大会などでよく取り上げられています。
2020年の台風19号による浸水被害を受けた福島県いわき市での救助活動中に、消防ヘリから女性が落下して亡くなるという事故がありました。
救助される際、ヘリ側のワイヤと救助機材をつなぐフックが掛けられていなかったため、女性が約40メートルの高さから誤って落下した事故です。
救助手順の確認を怠ったことが原因とされています。
【製造業との共通点】
工場での機械操作において、熟練工が安全装置を無視して作業を効率化しようとする事例があります。
かつて救助隊員として、ベルトコンベアを作動したまま点検をしていて巻き込まれたという労災事故で出動したことがありました。
これは消防士がマニュアルを軽視する事例と同じ根を持っています。
スピードを重視するあまり、消防自動車が完全に停止する前に、飛び降り転倒してしまった事故がありました。
結果的に、消火作業に着手する時間が大幅に遅れることになりました。
どんなに経験を積んでも、安全手順を省略しないという原則を守ることが、事故防止につながります。
【運輸業との共通点】
長距離トラック運転手が「慣れた道だから」と警戒を怠り、事故を起こすケースがあります。
これは消防士が経験による過信から危険を過小評価することと同じです。
雨天や積雪時の救急車や消防車の走行中の事故を、テレビニュースで目にすることがあります。
実際に、私も乗車していた消防車が、積雪時の道路のカーブでスリップし、あわやガードレールと衝突寸前だったという経験をしたことがあります。
どんなに熟知した路線でも、その日の天候や交通状況は常に変化していることを念頭に置き、警戒を怠らないことが大切です。
これらの例から分かるように、「慣れ」や「過信」による危険は、あらゆる業種に共通して存在します。
まとめ
私たちは経験を積むことで技術を向上させ、効率を高めていきます。
しかし、その経験が「慣れ」や「過信」という形で安全を脅かす危険性があることを、私の消防士時代の体験を交えてお伝えしました。
消防士の世界で起きた事故事例は、他の業種にも当てはまる普遍的な教訓を含んでいます。
日々の業務に慣れることで生まれる「油断」、ベテランゆえの「過信」は、どんな職場でも起こりうる危険な落とし穴です。
安全管理において最も重要なのは、次の3点です。
常に初心を忘れず、基本に立ち返る謙虚さを持つこと
自分の限界を知り、それを正直に認めること
どんなに慣れた作業でも、一つ一つの動作に意識を向けること
これらを心に留めることで、「慣れ」や「過信」による事故のリスクを大きく減らすことができるでしょう。
また、安全は、個人の努力だけでなく、組織全体で取り組むべき課題です。
日々の業務の中で、お互いに声を掛け合い、安全確認を怠らない文化を築きましょう。
安全管理に終わりはありません。
共に、より安全な職場、より安全な社会の実現に向けて、歩みを進めていきましょう。